就職したくても、職がなかった。
頑張っても、チャンスさえ回ってこなかった。
努力だけでは越えられない“時代の壁”が、確かにあった。
氷河期も、ゆとりも、非正規も──
あの時代に生きた若者たちが経験したのは、「自分では選べない制度」の中で、どうにか生きていくしかなかった現実です。
誰もが「頑張れば報われる」とは限らなかった

「もっと努力すればよかったんじゃないか」
「甘えだ」
「自己責任だろ」「仕方がなかった」
そうやって、社会から責められてきた人がたくさんいます。
でも本当に、そうだったのでしょうか?
たとえば就職氷河期。
採用枠そのものが激減し、「頑張る」という土俵にすら立てなかった若者が大勢いました。
ゆとり教育世代には、政府の方針でゆとり教育を受けていたのに、急な方針転換の中で翻弄され「競争を知らない」とレッテルを貼られ、非正規雇用の拡大によって、安定した生活基盤を持てないまま年月を重ねた人もいます。
けれど、その制度を選んだのは、彼らではありませんでした。
社会は、若者を“実験台”にしてきた
世代ごとにルールが違う社会。
上の世代が選んだ政策の「影響」を、若者が丸ごと引き受ける構造。
それが、ずっと続いてきたのです。
制度が変わるたびに、若者たちは“時代の実験台”にされてきました。
結果がうまくいかなければ「世代のせい」にされ、成果が出たとしても報われない仕組みのまま、次の時代に放り出される。
何度もそんな構図が繰り返されてきました。
一方で、恩恵を受け続ける世代もいる

たとえば、年金制度や医療制度。
今も昔の人口構造や経済成長率を前提とした仕組みで動いています。
それらの制度の“果実”を受け取った世代は、比較的守られてきました。
高齢化社会の中で、現役世代が支える構造が崩れているにもかかわらず、制度の見直しはなかなか進まない。
声を上げようとしても、人口比率で不利な若年層の意見は、選挙でも届きにくい現実があります。
国の発展のために頑張ってきた世代が制度の恩恵を受けるのは、当然の権利です。
でも、同じことをしても私たち現役世代には同じ見返りは補償されていない。それどころが人口が減ったのにたくさんの高齢者を支える必要があり税金の支払いは増える一方。制度として無理がある。
つまり、「ズレ」は、今もなお、続いているのです。
でも、私たちにはまだ「手」がある
私たちは、もしかしたら“時代の犠牲”だったかもしれません。
でも、その痛みを知っているからこそ、
同じ轍を次の世代に踏ませないための力になれるはずです。
傷ついた経験がある人ほど、他人の痛みに敏感になれる。
理不尽を知っている人ほど、それを許さない力を持っている。
10年後の未来を変えるのは、今の私たち

今を生きる私たちが、少しずつでも声を上げ、動き始めること。
無理に世界を変えなくてもいい。
ただ、「おかしい」と思ったことを「おかしい」と言える社会を目指して。
それだけでも、未来は少しずつ変わっていくはずです。
選ばされただけの制度を、無言で受け継ぐ時代は、もう終わりにしよう。
社会はまだ変えられる。
なぜなら、私たちはまだ——
これからの社会を生きていく存在なのだから。