完璧じゃなくていい。でも、“選ぶ目”は手放さないでいたい

私たちは、たくさんの選択肢に囲まれて生きている。
それは豊かさの証であると同時に、時には“気づかないふり”を生み出してしまう。
たとえば、安くて流行に合っていて、すぐ届くもの。
とても便利だし、お得に見える。
でもその裏側には、過酷な労働や大量生産、環境への負担が潜んでいることもある。
「知っているけれど、買ってしまう」
「わかっているけれど、選べない」
そういう場面、きっと誰の中にもあると思う。
私にもある。
Amazonで中国製の安い互換品を買ってしまったり、
安くて可愛いからという理由だけで洋服を選んでしまったり。
でも、だからこそ思う。
完璧じゃなくていい。
だけど、「何も感じないまま選ぶ」ことに慣れてしまわないでいたい。
理想に縛られると、思考停止がはじまる

環境にいいものを選びたい。
誰かを搾取しないものを選びたい。
できれば国産で、丁寧につくられたものを。
理想を持つことは、すごく大切。
でもそれを“いつでも100%で実現しなければならない”と思い込むと、
やがて自分を責めるようになる。
「どうせ自分には無理だ」
「社会は変わらないし」
そんなふうに、思考が閉じてしまう。
でも、本当に大事なのは、
“気づいたときに、ちゃんと向き合える自分でいること”なのかもしれない。
子どもたちに見せたいのは、「問いながら選ぶ姿」

社会をすぐに変えることは難しい。
政治は信じられない。利権や構造は複雑。
だけど、そんな中でも私たちは、
“日々の選択”の中で、未来を少しずつ形づくっている。
だからこそ、次の世代を育てる私たち大人が、
「考えることをやめない」姿を見せたい。
完璧じゃなくていい。
理想でいい。
でも、“こう選びたい”と思いながら生きる背中を、子どもたちに見せること。
「なにを選ぶか」よりも、
「どういう考えで選んだか」の方が、きっとずっと伝わる。
日本社会に感じる、まなざしのズレ
日本文化には、誇りを持っている。
美意識、空気の読み合い、慎ましさ、にじむ優しさ。
だけど、社会の構造には、どうしても息苦しさを感じる。
「こうあるべき」「普通はこうでしょ」と、
無言の圧力で人を型にはめようとする空気。

そしてその“型”の中には、
資本主義の流れに飲まれた大量生産・大量消費、
使い捨ての文化も、いつの間にか組み込まれてしまっている。
「いけないとは思っているけど、便利だから」
「考えてもどうせ変わらないし」
そうして、私たちはいつの間にか、
“流れに同調すること”を選び、思考を止めてしまう。
本来、美しかった“察する文化”が、
いつしか“思考を止める文化”になってしまってはいないか。
私はそれに、違和感を持っている。
そしてその違和感を、「なかったこと」にしたくない。
小さな“選ぶ力”が、社会を静かに変えていく
たとえ小さくても、
「これはちょっと違う」と思える感覚を手放さないこと。
たとえ毎回は選べなくても、
「今はこれを選ぼう」と意思を込めて決めること。
そうした“日々の小さなまなざし”の積み重ねが、
未来を静かに変えていく。
社会を変えるのは、大きな運動じゃなくてもいい。
ただ、考え続けること。
選び続けること。

そして、気づいたときに、選び直せる自分でいること。
それがきっと、これからを生きるための
“しなやかで、つよいやさしさ”なのだと思う。