なぜ私たちは、自然をコンクリートで覆ってきたのか──ディペイビングという問い
コンクリートやアスファルトをはがすという行為が、美しいと感じられるのはなぜだろう?
この問いから、日本の風景と心のあり方を静かに見つめ直してみたい。
SNSで見かけた「自然を取り戻す」光景

SNSで、ある海外の環境活動の動画を見かけた。
「ディペイビング(depaving)」という言葉が添えられていた。
アスファルトやコンクリートで覆われた地面を、
人々が剥がしていく。
すると、その下からは土が現れ、草が芽吹き、小さな庭や緑地へと姿を変える。
それはとても理想的で、美しい光景だった。
人間が“便利”の名のもとに封じ込めてきた自然を、
もう一度この手で取り戻そうとするその姿に、心を打たれた。
けれど、同時にふと思った。
「これを日本でやったら、どうなるんだろう?」
日本が自然を“覆った”文化的背景

日本は、そもそも自然が豊かな国だ。
気候も湿潤で、山も川も、そして雑草も、すぐに生命力を取り戻す。
そのぶん、管理が必要になる。
放置すればすぐに草が茂り、虫が湧き、近隣トラブルになりかねない。

日本庭園は、その自然美を生かしながらも、
枝を剪定し、苔を育て、不要なものをそぎ落とすことで完成される。
「自然をそのまま受け入れる」のではなく、“自然を整える”ことに美を見出してきた文化が、日本には根付いている。
この「削ることによって整う」という発想は、今のコンクリート文化にもつながっているのかもしれない。
雨が降ればぬかるむ土、
湿気を含んで苔むす石、
そこに根を張る雑草たち、
ひっそりと住み着く虫や動物たち。
それらを“嫌う”のではなく、
“排除”しようとしてきた私たちの社会には、
「整っていること=正しさ」という価値観が深く根付いている。
雑草のない道、
まっすぐな縁石、
毎朝掃き清められた玄関。
それらは一種の“美しさ”として評価されてきた。

「近所の目」や「清潔感」という社会的規範も手伝って、
実は日本では自然と人との間に、ある意味見えない壁が築かれてきたのかもしれない。
効率と便利さを極限まで追求した現代日本では、元々存在していたその見えない壁がより高くなってしまったような気がする。
“緩さ”を許さない社会で、土は不自由になる

ディペイビングの思想は、そうした“壁”を静かに壊す行為でもある。
土が見えるということは、
それだけで管理の手間も、ある種の“緩さ”も受け入れるということだ。
でも日本では、「緩さ」はときに“怠惰”や“不衛生”とみなされる。
だから、理想は共感できても、現実にはハードルが高い。
遠ざかった自然と、心の奥の“足りなさ”

けれど、本当にそれでいいのだろうか。
かつては自然の恵みを生活に取り入れ、
季節の移ろいや風の通り道さえも、暮らしの中で感じ取ってきたこの国が、
いまや「自然を遠ざけることがマナー」になってしまったことに、
少しだけ違和感を抱いてしまう。
本来、日本人には「自然に神が宿る」という感覚があった。

木や岩、川や風にさえ、神聖さを見出しながら暮らしてきたこの国には、神道という“自然と共に生きる知恵”があったはずだ。
それなのに、現代の都市生活ではその距離感が薄れ、「自然=手間のかかるもの」として遠ざけてしまっているようにも感じる。
もちろん、安全や利便性は大事だ。
でも、私たちが自然から距離をとるようになったことで、
心のどこかに「何かが足りない」という感覚もまた、
根を張り始めているのではないだろうか。
“The farther a person is from nature, the more likely the person gets sick.”
人は自然から遠ざかるほど病気になる。
──ヒポクラテス
日本らしいディペイビングの形を考える
整いすぎた街の中で、
不自然なまでに無菌な庭で、
私たちは本当に「落ち着く」と感じているのか?

ディペイビングは単なる土いじりではない。
それは、自然との“ちょうどいい距離”をもう一度探そうとする試みだ。
すべてを昔に戻す必要はない。
でも、今より少しだけ「土が見える社会」になったら──
風景も、空気も、そして私たちの心も、
どこか柔らかくなるような気がする。

海外のように大胆に舗装をはがすのは難しくても、日本ならではのディペイビングの道があるのではないだろうか。
“Nature is not a place to visit. It is home.”
自然は訪れるための場所ではない、自然は故郷である。
──ゲーリー・スナイダー
- コンクリートの一部に土壌ポケットを設け、野草や苔を育てる
- 駐車場の目地にグランドカバー植物を導入する
- 側溝の一部を小さなビオトープにし、水辺と草の共存をはかる
そんなふうに、“余白の自然”を暮らしの中に少しだけ取り戻していく。
それが、きっと今の日本に合ったディペイビングのかたちなのかもしれない。