夜遅く帰宅して家族と過ごす時間がない男性の帰宅

社会と心のズレ|いまを見つめる名言

「家族のため」に働くのに、家族と過ごす時間がないのはなぜ?

朝から晩まで働いて、クタクタになって帰宅する毎日。
それでも「家族のために」と自分を奮い立たせている。
けれどふと立ち止まったとき、心のどこかに小さな違和感が残る。
「これが、本当に家族の幸せにつながっているのだろうか?」

それは、社会が「時間より稼ぎ」を重視する仕組みだから

家族と一緒に過ごす時間は少ないのが一般的会社員

「家族のために働く」
そう語る人は多い。けれど、実際の生活を見てみると、
家族と過ごす時間は、ほんのわずかしか残されていない。
朝早くに家を出て、夜遅く帰ってくる。
一番長く過ごしているのは、職場の人たち。
“家族のために”のはずが、“家族のそばにいない”のが現実です。

なぜ、こんな矛盾が生まれるのでしょうか。
それは、私たちが暮らす社会が、「どれだけ稼ぐか」に重きを置いて設計されているからです。

家族との時間が“贅沢品”になっている時代

かつては、家に誰かがいて、食卓を囲むことが当たり前でした。
今はどうでしょうか。
共働きの家庭も増え、子どもとの時間すら、
スケジュールの隙間に組み込むようになっています。

「時間より稼ぎ」を優先する社会の中では、

誰かとゆっくり過ごす時間は、

お金以上に手に入りにくい
“贅沢品”になってしまいました。

せっかくの家が、「寝るだけの場所」になっていない?

長期ローンを組んで購入した家

家を買う。大きな決断です。
家族のために、安心して暮らせる場所を。
そう願って買ったその家に、実はあまりいられない。

夜に帰って、寝るだけの場所。
平日は家族の顔を見ることすらままならない。

自分の人生の多くを過ごす場所が、会社でいいのか?
そこに疑問を感じるのは、わがままでも贅沢でもないはずです。

「家族のため」に見えて、実は自分をすり減らしているかもしれない

稼ぎと家族との時間どちらに比重を置くか

もちろん、生活費を稼ぐことは大切です。
でも、それが「犠牲」を前提にしているとしたら…
家族のためと言いながら、自分をすり減らして、
疲れ果てた姿しか見せられない。

それは、本当に“家族の幸せ”につながっているのでしょうか?

「家族のため」という言葉に隠れて、
ただの自己犠牲になっていないか。
心の奥で、虚しさを感じている自分はいないか。

──もしかしたら、その家族が本当にあなたに求めているものは、
お金だけでなく、一緒に笑い合って過ごす穏やかな時間なのかもしれません。

仕事で疲れて、寝ている顔しか見られない日々。
毎日会話はあっても、心がすれ違ったままの数年。
その積み重ねの中で、
家族はいつしか「期待すること」をやめてしまうこともあります。

ATMのようにお金を運ぶだけが役割になってしまう男性

最初は寂しさや不満だったものが、
次第に「仕方ない」「どうせ無理」と諦めに変わり、
やがて“ただ生活費を運ぶ存在”=ATMとしてしか見られなくなる。

そうして感情的なつながりが希薄になったまま、
ある日突然、「もう無理」と別れを切り出される──
熟年離婚という選択肢が現実になる家庭も、珍しくありません。

「家族のために頑張ってきたのに」

その思いすら、届かなくなってしまう。

その未来は、本当に「来る」未来ですか?

人は、いつ死ぬか予測できません。
5年後や10年後のためにと、
今日という日を後回しにし続けているけれど──

もし1年後に人生が終わるとしたら、
あなたは今の働き方を続けたいと思えるでしょうか?

「家族のため」と言って頑張ったけれど、
結局ほとんど一緒にいられなかったこと。
自分の“城”であるはずの家で過ごす時間がわずかしかなかったこと。
その現実に、後悔は残らないでしょうか。


何を大切に生きていきたいのか、立ち止まってみてもいい

人生で大切にしたいものは家族化お金か

社会は変えられなくても、問いを持つことはできます。

  • どんな暮らしをしたいのか?
  • 誰と、どんな時間を大事にしたいのか?
  • “働く”とは、自分にとって何なのか?

その問いの先に、「今より少しだけ自分らしい生き方」が見えてくるかもしれません。


終わりに

「家族のため」だからこそ、
家族とちゃんと“過ごす”という時間を、もっと大切にしてもいい。

それはわがままではなく、
“生きている”実感を取り戻すための、自然な願いなのだと思います。

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