京都の観光名所・稲荷大社の鳥居

社会と心のズレ|いまを見つめる名言

京都はなぜ美しいのに少し疲れるのか?日本らしさと観光の距離感

京都はたしかに美しい。でも――

京都の観光代表格である金閣寺

京都は、ほんとうに魅力的な場所だと思う。
季節ごとに変わる風景、歴史を感じる街並み、
何度訪れても、ここが「日本であること」を思い出させてくれる

外国人観光客が「京都がいちばんよかった」と言うのも、よくわかる。
あれだけの文化や伝統を、わかりやすく美しく見せてくれる場所は、そう多くない。

でも私は、少しだけ距離を置いて京都を見ている

魅せる京都、迎え入れない京都

京都は、外から見れば完璧な観光地に見える。
けれど、そこに「暮らす人のまなざし」まで触れようとすると、あくまで私の主観だが少し冷たい空気を感じることがある。

どこか排他的で、よそ者には“見せる”けれど“入れない”ような
そんな気配を感じたことがある人も少なくはないのではないだろうか。

もちろん、すべての京都の人がそうというわけではないし、それも京都の文化だ。
でもこの町には、「外との距離の取り方」が、長い歴史とともにたしかに息づいている気がする。

京都に感じる、ちいさな違和感

京都が嫌いなわけではない。むしろ、その美しさや文化の豊かさには何度も感動している。

でも同時に、どこか「選ばれる側」「見せる側」としての誇りのようなものを感じることがある。
それがときに、“よそ者”への無言の線引きにも見える。

どこか本音が見えない京都の人

関西圏では、そうした京都の“空気”を苦手とする人が意外と多い。
とくに大阪などのオープンな気質に慣れている人からすれば、
京都の“丁寧だけれど距離がある”感じに、違和感を覚えることもあるのだと思う。

それは、まるで「大丈夫です」と言いながら、本当は大丈夫じゃないときの日本語のように。
言葉の表情よりも、その裏にある「察してほしい気配」でやりとりをする。

京都の空気には、そんな“にじませる伝え方”が根づいている。

京都という町に、日本という文化が映っている

日本を代表する存在である舞妓さん

ふと思う。京都に感じるこの独特な距離感は、
外国人が日本に来たときに感じる“曖昧さ”や“よそよそしさ”に、少し似ているのではないかと。

「みんなやさしいけど、本音が見えない」
「笑顔だけど、どこか線を引かれているように感じる」

みんな親切」「日本はすばらしい」と称賛の言葉をかけてくれる一方で、このように感じている観光客も結構多いのではないだろうか。

それは、日本人にとってはごく自然な“気遣い”かもしれないけれど、
慣れない人にとっては「入ってはいけない静かな壁」にも見える。

京都は、ある意味でその“日本らしさ”を凝縮した場所なのだと思う。

観光地という“顔”と、まなざしのちがい

観光地には、「見せる顔」と「本当の顔」がある。

観光地京都の、見せる美しさ

京都はその「見せる顔」がとても洗練されていて、
それを見に行くのはたしかに価値がある。

でも、そこに“入っていけない感じ”や、“用意された感動”に、
ちょっとだけ疲れてしまうこともある。

日本の田舎の、飾らない美しさ

一方で、もっと素朴で飾らない場所では、
“見せようとしていない風景”が、「本当の顔」としてそのまま残っていて
だからこそ、心がふっとほどける瞬間がある。

京都は「本物の顔」も、もちろんどこよりも奥深くて素晴らしい

でも、それゆえに本物の顔を見せてもらえるまでの距離がかなりあり、そこに寂しさや疎外感を、私は覚えてしまう。

これからの観光に必要なもの

和がさを広げ日本らしさで外国人観光客をおもてなしするお店

京都や日本の観光は、すでに世界から高く評価されている。

でも、それだけに「見せる」ことに慣れすぎてしまっているところもあるかもしれない。

これから必要なのは、完璧に整えられた体験だけではなく、
もう少し“余白”や“関われる距離”を持つことかもしれない。

すべてを説明し尽くさず、ありのままを
「感じ取ってもらう」空気を残す。

よそ者を「知らない・わかっていない」を理由に遠ざけるのではなく、

「よう来なさったな」と笑える懐の深さ
を持つ。(田舎では今でも見かける光景でもある)

それは、日本が本来持っている“おもてなし”のかたちでもあるはず。

どちらも間違っていない。ただ、違うだけ

多様な楽しみ方ができる国、日本

京都が悪いわけでも、他が優れているわけでもない。

ただ私は、「自然体でそこにあるもの」に惹かれるタイプで、
“美しすぎる演出”に少しだけ疲れてしまうことがある。

「見せる顔」の洗練された美しさに心地よさを覚える人もいる。そして「本当の顔」をすぐに引き出して出会い楽しめる人もいる。

「京都」も「日本」もどうとらえるかは、その人次第

どちらの視点も間違っていない。だから私は、“どちらもある”と見つめる視点を、
これからも言葉にしていけたらと思っている。

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