「家族のために頑張ってるのに、何も伝わらない」

そんなふうに感じている男性は、きっと少なくない。
かつての“理想の父親像”は、「黙って働く」「家庭を支える」だった。
でも今では、それだけではもう評価されない。
むしろ「昭和っぽい」と笑われることすらある。
我慢して、耐えて、支えてきたこと。
誰かのために黙って頑張ってきたこと。
それが「当たり前」のひとことで片づけられてしまう日々。
「何を選んでも、責められる時代」に生きる女性たち
今は、専業主婦でも働いていても、
「自分で選んだ道なんだから責任を持って当然」と言われる時代。
選択の自由が広がった一方で、
“その選択の責任”ばかりが女性に重くのしかかっている。
専業主婦なら「何もしていない」と言われ、
フルタイムで働けば「家庭をおろそかにしてる」と言われる。
どんな選択をしても、誰かの“正しさ”とぶつかる。
昔のように「こうあればいい」という母親像もなくなり、
正解がないなかで、それでも迷惑をかけないようにと、
静かに、自分の役割を果たしている人たちがいる。
背負っている苦しみは、表に出にくいだけで
たとえば──
男性は
「自分の時間も体力も削って働いているのに、家のことをしないと責められる」
女性は
「家庭も育児もまかされているのに、仕事をするなら結果も出せと言われる」

どちらも、
「ちゃんとやってるつもりなのに、足りないと言われる」
「誰にも迷惑をかけたくないのに、なぜか責められる」
立っている場所が違うだけで、
背負っているものの重さは、案外似ているのかもしれない。
競い合うより、少しだけ想像し合えたなら

これは、どちらがつらいとか、正しいとかいう話ではなくて、
ただ、見えにくい重さが、そこにあるということ。
見えた瞬間に、気持ちがふっとやわらぐことがある。
「なんだ、自分だけじゃなかったんだ」って思えるだけで、
誰かへの言葉のトゲが、少し丸くなることもある。
「ありがとう」で減らせる苦しさがある
もしも、家庭のなかでも、職場のなかでも、
“それくらいやって当たり前”ではなく、
「ありがとう」がもう少し交わせたら。
もしも、お互いにその背景を少しだけ想像できたなら。
そうやって、誰かの苦しさを一人ぶん減らすことができたなら。
ほんの少しだけ、今より生きやすい世界に近づけるかもしれない。